輪島大士の学歴と経歴|出身小中学校高校や大学の偏差値
元横綱でプロレス、タレントを経験した輪島大士さん、本名輪島博(ひろし)さんが亡くなっていた事が10月9日公表された。
70歳だった。
輪島さんは石川県七尾市の出身です。
身長185cm
相撲時代は、金色、黄金のまわしで左手でまわしを取ると、無類の強さを誇り「黄金の左」と呼ばれていた。
■経歴・プロフィール
輪島 大士
四股名 輪島 大士
本名 輪島 博
愛称 蔵前の星、ワジー
生年月日 1948年1月11日-2018年10月9日(70歳没)
出身
石川県七尾市
身長
185cm
体重
132kg
所属部屋
花籠部屋
得意技
左四つ、寄り、下手投げ
相撲での成績
最高位
第54代横綱
生涯戦歴
673勝234敗85休(68場所)勝率 0.742
幕内戦歴
620勝213敗85休(62場所) 勝率 0.744
優勝
幕内最高優勝14回
十両優勝1回
幕下優勝2回
賞
殊勲賞3回
敢闘賞2回
■略歴
1970年1月 – 幕下付出で初土俵
1970年5月 – 新十両
1971年1月 – 新入幕
1972年11月 – 大関昇進(輪島 博 改め 輪島 大士)
1973年7月 – 横綱昇進
1981年3月 – 現役引退、年寄・花籠襲名
1985年12月 – 不祥事により、相撲界を退く(廃業)。
1986年 – 全日本プロレス入団
1988年 – プロレス引退
金沢高等学校(偏差値48-64)卒業後、日本大学(偏差値35-65)を卒業後、幕下付出し初土俵で横綱に昇進し、学生相撲出身唯一の横綱である。
横綱昇進後も本名の「輪島」をしこ名にしていた。
右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。
トレードマークの金色のまわしとかけて「黄金の左」と言われた。
当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。
こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。
■輪湖時代
「昭和の大横綱」と言われた北の湖とは最大の好敵手であり、2人で「輪湖時代」(りんこじだい)を築いた。
北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角。
また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。
1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))実現し、横綱として責任を充分果たしている成績で復活を果たす。
優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。
大相撲・親方時代
1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋を継承した。
1982年4月妻が自殺未遂(その後離婚)
1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。
これが原因で、同年12月に廃業となった。
■プロレス時代
輪島が全日本に入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しかった。
必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年「喉輪落とし」として多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代からの仲良しだったプロレスラー石川敬士の退団と同時に1988年12月に引退した。
■プロレス引退後〜タレント・評論家時代
プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。
日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する。
ワジーというあだ名は石橋貴明が付けた。
2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。
2018年10月9日
亡くなったことが分かった。
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